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プロとして生きる道はJリーグだけか?     インタビュー 和久井秀俊 Vol.2

【プロとして生きる道はJリーグだけか?】

インタビュー サッカー選手・和久井秀俊

和久井秀俊

 

 

 

 

 

 

自分のオリジナルがあればチャンスがある
 国やリーグ、クラブのレベルは気にしない

——和久井選手の経歴を時系列で追ってみたいと思います。スタートはブラジルから…高校を卒業してすぐですか?

「卒業が確定してからすぐにブラジルへ発ちました。実は、卒業式は出ていないんです」
 
——えー、そうなんですね。何かツテをたどって行かれたんですか?

「少しだけ話は伺っていたんですが、何のツテもなく、どこのクラブとかも決まっていなかった。朝6時からスーパーで品出しのアルバイトしてお金を稼いで、そのまま飛行機に飛び乗りました」
 
——では、サント・アンドレとプロ契約に至った経緯は?

「はじめは、名も知られていない5部や6部のチーム練習に参加していました。日本語が通じる人を探し、クラブを探し、コネクションを作りながら毎日トレーニングを積んで、やっとサント・アンドレの門を叩きました」
 
——昔、カズがよく言っていたんですが、勝利給で食いつないでいたと。

「同じですね。プロ契約といっても勝たなければ、お金がもらえなかったので、本当に苦しかったですね」
 
——そんな苦しさが、ブラジルでの経験が、勝利への欲求やうまくなりたいという上昇志向につながっているんですね。

「ブラジルで得たものは、気持ちの部分が一番大きいです。選手としての土台となるサッカーへの欲求、いわゆる『サッカーが好きなんだ』という気持ち。ブラジルへ行く前は、『本当にこれで大丈夫なのだろうか?』と自問自答したところもあったんですが、ブラジルで生活している中で、『オレはサッカーが好きなんだ』って感じることができました。

 10日間、ご飯が食べられなくてもボールを蹴っていたし。ご飯が全然食べられなくても、サッカーができる喜びを感じることができた。万引きとか犯罪に走ることもなかったですし。今だからいえますが、何度も危険な体験もしました。みなさんの想像を越えると思います。それでも帰国することはなかったので、それだけ『サッカーが好きなんだ』って確信しました。

 本当に最低限の生活をしていたし、でもそれも経験として昇華できて、サッカー選手としてのベースというか、土台になったんじゃないかって。日本で危険なことがあったら、最悪の状況までいっているだろうし、何が起きてもがんばれるのは、ブラジルでの経験があったからです」
 
——実際、ブラジルのサッカー環境というのはどんな状況なんでしょうか?

「僕自体、高校までのサッカー環境がよくなかったので、毎日サッカーができて恵まれていました。中学校の時はサッカー部がなくて、生徒会長になって部を創設したぐらいでしたから。芝があるわ、ボールがあるわ、ボールが蹴れるわ、で、クラブもご飯を用意してくれていたので、練習が終わった後にすぐ食べられるし。ケガをしたら治療をしてくれるドクターもいる」
 
——5年前にドイツへ行った時、フライブルグにある小さな町の、友人が指導するクラブ(小学生年代)を取材したことがあるんです。地方にある小さなクラブでも、シャワールームなどが完備されたクラブハウスがありました。ブラジルにも小さな町の小さなクラブにそんな施設があるんですか?

「すべての環境がそろっているわけではありませんが、最低限サッカーをトレーニングできる環境は整っています。なので、選手はプレー以外のことを気にすることなく、練習に取り組めるとか、試合に臨めるというのは間違いないです」
 
——5部とか、もっと下のリーグでも?

「だいたい、どのクラブも最低限グラウンドは持っています」
 
——ずっとブラジルでプレーするつもりだったんですか?

「サッカーで食べられたらいいなと。もともとブラジルで暮らすつもりだったので、先のことはあまり考えていませんでした。プロになったといっても、勝ってお金をもらう程度のことだったので、ここまで辿りつけるとは思っていなかった」
 
——ブラジルの人は、『オレはサッカーで飯を食って行くんだ!』という感じで、みんながプロを目指す?

「オレは食っていくんだというよりも、家族愛や愛国心がとても強い国なので、『家族のために』という方が強いです。ここは日本人にはないものだと。家族を養っていきたいという気持ちが、自分の気持ちよりも先だと思います」
 
——ブラジルではどれくらいプレーを?

「2年…いや2年半ぐらいかな。サント・アンドレで契約して、その後はアトレチコ・ジャレゼンセという3部のチームでプレーしました。アトレチコはお世話になった監督に誘ってもらったので移籍しました」
 
——その後、一度日本に帰ってきたんですよね?

「実は、サント・アンドレで監督を務めていたエウシオさんがアルビレックス新潟のフィジカルコーチに就任したんです。2003年には誘ってもらっていたんですが、ブラジルに住むつもりでいたし、まさか呼んでもらえるとは思わなかったんです。『ブラジルでサッカーをやりたいんだ』といって2回断りました。3回目に誘われた時に、ちょうどビザを取りに日本へ帰国したタイミングで監督と会ってみないかと。反町さん(現松本山雅FC監督)が監督だったんですが、1日だけ練習に参加して、直接誘っていただいて契約に至ったんです」
 
——アルビレックス新潟はどうでしたか?

「契約時の反町さんとの話では、『右サイドで力を貸してほしい』と言われていたんですが、ちょうどJ2で優勝争いをしていて半年で結果を出す状況で…。なかなか試合に出場できませんでしたが、Jでプロ生活を送るという意味でいい経験になりました」
 
——それで、アルビレックス新潟シンガポールに移籍された。

「新潟がシンガポールにチームを作るということで話がありました。創立一年目のチームに加われることって、まずサッカー人生でないことだと思って、出場機会も考えてレンタルで移籍しました。僕自身、日本でプレーすることに固執していなかったので、話を受けた時は正直おもしろそうだなと。もう少し日本でやりたい気持ちもありましたが、行くことにしました」
 
——和久井選手の考えで、プレーする場所にこだわりはないんですか?

「『プレーする』というのが基本です。日本には、J1の選手が解雇になるとJ2へ、んー、階段を下がるようなイメージができていると思うんです。でも、ヨーロッパでプレーしていると、どんなリーグ、どのクラブで戦っていてもレベルの高いクラブへ移籍できる可能性があるんです。実際に、ヨーロッパというか、世界的に見てもJFLで戦っているようなチームの選手がいきなりJ1、つまりトップリーグに移籍して活躍するケースはありますし、監督によって使い方も違う。

 ただ日本でプレーして感じるのは、同じようなプレーをする選手が多い。クイックネスがあって足元がうまいとか、プレースタイルが似ているから特徴を見極めにくいように思います。海外のクラブはしっかり特徴をチェックして、スペシャルなもの、チームに必要とするものを持った選手であれば、下位のリーグでもスペインなどの強豪リーグも獲りにいくのが常識。『JFLでプレーしていて先が見えないから辞める』というようなことは、僕の考えでは全くありません。なので、場所にこだわりはなかった。この点は、Jの選手とは話がかみ合いませんでしたし、理解されなかった。

 これは日本代表にも当てはまることだと思います。監督が交代すれば、呼ばれる選手も顔ぶれが変わってくるし、サッカーの内容も変わる。最近は、ようやく有名リーグ以外でプレーする人も増えてきましたが、いまだにこの考えはわかってもらえない部分も多いです」
 
——まだ、そういう考えは理解されないかもしれません。レアルの監督を務めるモウリーニョがポルト(ポルトガル)から、チェルシー(イングランド)、インテル(イタリア)、レアル・マドリード(スペイン)へと移った時、当時率いていたチームの選手を獲得したり、獲得を打診したりと、監督によって重要視する選手が異なることもクローズアップされることが増えたので一般化されたところはあります。
 当時は世界全体で客観的にサッカー界を見ている日本人が少なかったと思うので、理解されなかったでしょうね。最近テレビやインターネットで世界のサッカーが簡単に見られるようになって、監督によって起用する選手やサッカーが違うことに触れられる機会があるので、そういう面でグローバル化した部分もあると思います。

「Jでプレーしている選手に、『もったいないな』と感じることはあります。J2やJFL、J1でも控えにいる選手も、もっと考え方を変えれば可能性があるんだろうなと」
 
——確かに、日本でも埋もれている選手はたくさんいます。話がそれたので戻します。シンガポールのレベル、サッカーはどんな感じでしたか?

「もう数年前の話ですが、それほどレベルは高くなかったです。ただ中国やフランス、イギリスなどの選手がプレーしていたので、おもしろいリーグでした。シンガポールU-23代表や中国のチーム、今はフランスのチームが加入しているらしいですが、1つのリーグにいろんなチームがあって、いろんな国のサッカーが体感できるのは、世界的にも例がないので。自国のカラーがないような、人口の80%が中国系の人が集まっているシンガポールだからこそできるのかなと思います。1シーズン、プレーしてみて楽しかったです。シンガポールとはいえ、トップリーグでプレーしたのはいい経験になりました」
 
▼▼▼インタビュー Vol.3へ続く … Next Page▼▼▼


和久井秀俊

 

 

 

和久井 秀俊(わくい ひでとし)
1983年2月12日生まれ。栃木県出身。
173cm・65kg/ポジション MF/FW
地元栃木で小学校からサッカーをはじめ、Jリーグ開幕直前まで鹿島アントラーズに所属した根岸誠一が開くサッカースクールに通う。中学校ではサッカー部がなかったため、一時は野球部に入部するも2年時に自らが生徒会長になってサッカー部を創設してプレーを続ける。鹿沼東高校時代は公立校にもかかわらず、3年時に県大会でベスト8に進出。コーチ兼キャプテンとしてチームを引っ張り、卒業を待たずして単身ブラジルに渡ってプロの夢をかなえる

【経歴】
2001年〜 サント・アンドレ(ブラジル)
2003年〜 アトレチコ・ジャレゼンセ(ブラジル)
2004年〜 アルビレックス新潟
2005年〜 アルビレックス新潟シンガポール レンタル移籍
2006年~ ファクトール(スロベニア) 完全移籍
2007年〜 インターブロック(スロベニア)※元ファクトール
2007~2008年 バッド・オウセー(オーストリア)完全移籍
2008年〜 NDゴリツァ(スロベニア)完全移籍
2009年〜 ボヘミアンズ・プラハ(チェコ)完全移籍
2010年〜 FKミンスク(ベラルーシ)完全移籍
2011年〜 ノーメ・カリュ(エストニア)完全移籍
 
取材・文=木之下 潤(Kinoshita Jun)
撮影=赤松洋太(Akamatsu Youta)、佐藤 奨(Sato Tsutomu)
 

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