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プロとして生きる道はJリーグだけか?     インタビュー 和久井秀俊 Vol.3

【プロとして生きる道はJリーグだけか?】

インタビュー サッカー選手・和久井秀俊

和久井秀俊

 

 

 

 

 

 

——それでスロベニアに渡られた。オファーがあったんですか?

「いや、まったくなかったです。とにかくヨーロッパでプレーしたいと強く思っていて。南米でやって、アジアでやって、技術や戦術などは経験として吸収できていたので、次はヨーロッパしかないだろうと。高校卒業前にブラジルへ渡った時と一緒で、『ヨーロッパへ行きたい』という一心でした。

 でも、具体的にどうしようって…オファーもないし、ツテもない。それで、日本人の代理人に頼んで移籍先探しをスタートしました。代理人には、足がかりになるところであればどこでもいいと。まずヨーロッパでプレーしたいという気持ちを伝えて。それが、たまたまスロベニアのファクトールというチームでした」
 
——スロベニアではどんな経験を?

「2部のチームだったんですが、プロのサッカー人生で初めて優勝を味わいました。まだユーロになる前で、トラールという通貨を使っていました」
 
——2部ということですが、松井大輔選手がよく自身の体験で2部はフィジカル主体だったといわれていました。スロベニアもそうなんですか?

「ヨーロッパはどの国もだいたい同じです。2部はフィジカル主体で、1部は技術というような。オーストリアでも2部で戦いましたが、フィジカルの要素は高かった。プレー自体は荒かったです」
 
——2部なので当然1部よりも技術が劣るので荒いとは思います。ただメディアの報道も含めて、一概に2部が荒いというイメージは違うのかなと。例えば『アピールしたい、生き残りたい』と、そういう思いが強いのでプレー面に現れるのかなと。実際はどうなんでしょうか?

「両方あると思います。当然、技術が足らないのでそこでカバーしよう、よく見せようというのはあります。ただ、キレイなサッカーを実戦したところで勝てない面もあるんです。国にもよりますが、しっかり守って勝つというのが、2部から1部へ昇格するチームの常套手段なので。戦術の部分で、いかに危ないところを抑えるか、そこを技術よりも体でカバーするかというところもあるので一概にはいえないですが、両方あると思います」
 
——参考になりました。ファクトールは1部に昇格したわけですが、そのままプレーを?

「そうですね、会長が交代して名前が『インターブロック』になったんですが、そのままプレーしました」
 
——スロベニアは、どんなサッカーが展開されるんですか? 元日本代表監督のオシムも、2010年ワールドカップで『スロベニアがサプライズを起こしても、不思議じゃない』と潜在能力の高さを評価していました。

「ダイレクトプレーを多用するようなサッカーが主流でした。スロベニアは南米の要素が入っていて楽しかったですね。2006年のワールドカップでは予選で負けてしまいましたが、一昨年の南アフリカ大会は、予選を通過して本戦に出場しました。結果はグループリーグ敗退でしたが、ダークホースとして話題になりましたし、あの活躍を見ても何も驚きはありませんでした。当時からチームも選手もクオリティは高かったですね」
 
——展開されるサッカーの話になったので、お聞きしたいんですが、ヨーロッパで戦っていて、やはり流行のサッカーってあるんですか?

「はい。流行ってヨーロッパから広がりますよね。特に戦術的なものは、ヨーロッパ5大リーグから。なかでも、スペイン・イタリア・ドイツ、ここから派生することは多いです」
 
——なるほど。翌シーズンはオーストリアに移られたんですよね?

「2部だったんですが、バッド・オウセーというクラブへ。オファーがあったので『必要とされるチームでプレーしよう』という思いもあって移籍しました」
 
——和久井選手は、ほぼ1年刻みで移籍しています。国も変わっているし、リーグも異なるので、なじむのが大変じゃないですか? 移籍に対してどういう考えを持っていますか?

「確かにそうですね。見る人によっては、1年でクビを切られたと思うだろうし、逆に、なぜ1年でチームを去るんだと思う人もいるだろうし。1年ごとにオファーがあるから年俸がいいクラブにいっているんだと思う人もいる。人それぞれ感じ方が違いますから。
 
 ストレートに、僕が求めているサッカーや目標があって、その中で残留すべきか、移籍するべきかを考えての行動です。結果、だいたい1年で移籍しているというだけで。翌シーズン、スロベニアに戻っているんですが、『ゴリッツァ』という歴史のあるヨーロッパでも有名なクラブがあって、そこでプレーしてみたいと思って入団しました。オーストリアを挟みましたが、スロベニアのインターブルックに在籍していた時はオファーがなかったので」
 
——移籍するごとにチームに早くなじむ努力が必要です。シーズン前のキャンプからどういうことに取り組まれるんですか?

「僕は、人とよく話をするようにしています。だからコミュニケーションをとるのは、普通の日本の方よりも早いと思います。順応するのも経験があるので、それなりに早くやれると感じています」
 
——コミュニケーションを重要視されていると? 日本代表の長友選手もチームの輪に飛び込んでいますよね。もちろん、プレーで周囲を納得させるのが前提ですが…。

「1人ではプレーできないので、コミュニケーションをとらないことには前に進めません。具体的には、カフェに行って話をしたり…イタリアなんかでは数人でカフェに行ったりしているみたいですし。練習が終わって『30分ぐらいカフェに行かないか?』って誘って。でも、僕の場合はリーグというか、サッカーに順応するのもそうですが、国を渡っているのでまず生活に慣れることが先決です。サッカーの話というよりは、生活に関する話が最初は多いですね」
 
——ゴリッツァでプレーしたかったそうですが、実際に入団してみてどうでしたか?

「想像とは違いました。歴史のあるクラブには伝統があるし、変わっていくものと、変えてはいけないものがあるので難しいこともありました。それまで、そんなクラブに在籍したことがなかったので、いいことも悪いことも体験しました」
 
——翌シーズンはチェコへ?

「はい、チェコは世界的に見てもレベルが高いので興味がありました。スパルタ・プラハなどヨーロッパでも有名なクラブがありますし、施設を含めて環境はものすごく整っていました。物価が安いし、生活もしやすかったです」 

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——どのクラブでも一定の評価を得て活躍し、いくつもの移籍を勝ち取っています。ご自身が『これはやっていけるな!』と確信を持てたのはどのタイミングですか?

「スロベニアですね。『ファクトール』は2部でしたが、リーグ優勝を経験して1部に昇格し、翌シーズンは自分たちの力で残留を勝ち取れたので。プレーオフで残留を決めたんですが、その試合でゴールを奪っての勝利&残留だったので、若かったのもあっていい意味で自信を付けるキッカケになりました。シーズン終了後のオファーがすごかったので、そういう意味でも、結果がすべての世界なので自信をつけるいい材料にはなりました」
 
——そしてベラルーシですね…ユーロの予選でしか試合を見たことはありませんが、どんなリーグですか?

「ヨーロッパで移籍する際、その年にリーグランキングを4〜7ぐらい上げているリーグを目指しているんです。ランクを上げるには理由があるので、チームを選ぶ一つの目安にしています。

 ベラルーシは、当時ランキングを7つ上げていたんです。『バテボリソフ』というチャンピオンズリーグにも出場しているクラブがあるんですけど、そこにも魅力を感じていました。文化もおもしろそうだったので。国のイメージは北朝鮮みたいな感じです。

 僕、実はチェコで1部から3部に落ちているんです、八百長問題で…。そんな裏側も見てしまって『今のサッカーがどういったものになってきているか』を、身をもって体験しました。ベラルーシでも八百長問題に巻き込まれました。半年しか在籍しなかったですが、その中でも『自分がどれだけやれるのか』を挑戦したところでしたね」
 
——ブラジル時代からそうですが、和久井選手は常にチャレンジしている印象を受けますよね。

「日本人のサッカー選手では前例のない国が多いので想像ができないというか。だから、ものすごく興味をそそられます。ベラルーシは、大使館の方も含めて邦人は30人程度だったし、エストニアでも80人ぐらいなので、まずサッカー選手なんかいるわけがない。日本人選手がどういう扱われ方をするのかなというのがすごく楽しみです。

 意外に、ベラルーシが一番メディアで扱われました。日本=アニメだったので、僕をアニメで例えて紹介することもありました。日本では絶対にあり得ないし、感性が違うのでおもしろかった。まず『こんなにもアジア人がいないんだ』と思う国は初めてでした。ビザを取得するのが大変な国で、中国人も少なかったし、クラブと契約しているにも関わらず、入国が困難なぐらい厳しかったですね」
 
▼▼▼インタビュー Vol.4へ続く … Next Page▼▼▼


和久井秀俊

 

 

 

和久井 秀俊(わくい ひでとし)
1983年2月12日生まれ。栃木県出身。
173cm・65kg/ポジション MF/FW
地元栃木で小学校からサッカーをはじめ、Jリーグ開幕直前まで鹿島アントラーズに所属した根岸誠一が開くサッカースクールに通う。中学校ではサッカー部がなかったため、一時は野球部に入部するも2年時に自らが生徒会長になってサッカー部を創設してプレーを続ける。鹿沼東高校時代は公立校にもかかわらず、3年時に県大会でベスト8に進出。コーチ兼キャプテンとしてチームを引っ張り、卒業を待たずして単身ブラジルに渡ってプロの夢をかなえる

【経歴】
2001年〜 サント・アンドレ(ブラジル)
2003年〜 アトレチコ・ジャレゼンセ(ブラジル)
2004年〜 アルビレックス新潟
2005年〜 アルビレックス新潟シンガポール レンタル移籍
2006年~ ファクトール(スロベニア) 完全移籍
2007年〜 インターブロック(スロベニア)※元ファクトール
2007~2008年 バッド・オウセー(オーストリア)完全移籍
2008年〜 NDゴリツァ(スロベニア)完全移籍
2009年〜 ボヘミアンズ・プラハ(チェコ)完全移籍
2010年〜 FKミンスク(ベラルーシ)完全移籍
2011年〜 ノーメ・カリュ(エストニア)完全移籍
 
取材・文=木之下 潤(Kinoshita Jun)
撮影=赤松洋太(Akamatsu Youta)、佐藤 奨(Sato Tsutomu)
 

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